こんにちは。
高校生コース講師の小谷野です。
国公立大学の合否も出揃い、長野県は高校入試の後期選抜も終わり、一区切りがついた方が多いころかと思います。
思い通りの結果だった人も、振るわなかった人も、もう一年頑張る決断をした人も様々かなと。
全員が「合格」を掴めないのもまた、入試の残酷さですね。
しかし、大事なのは結果ではなく、「過程」です。
何かに真剣に打ち込んだという経験は、必ず本人に刻まれています。
その経験が、大人になったときにいつかどこかで背中を押してくれるものです。
受験勉強なんて意味あるの?
そんな受験勉強の過程では多くの人が同じような考えを浮かべると思います。
大学入試の勉強というのは、どこか机上の空論のような、そんな空虚なものではないのか。
そこに意味はあるのか。
「こんなの社会に出てから役に立つの?」
「sin,cos,tanなんて覚えてもしょうがないでしょ?」
「翻訳機があれば英語なんていらないでしょ?」
なんて疑問、不満が脳裏に何度も浮かんでは消えを繰り返してきたと思います。
上のような意見に対しては、共感できる部分と、反論したい部分が混在してます、、、
ただ、今回は、そんなつまらない議論は置いといて、入試問題を単純に楽しめよっ!
っていう話をします。
自分の経験上、入試問題は大人になってから見た方が楽しめます。
だって、現役の受験生時代は、点数を取るのに必死で楽しむ余裕がないでしょう。
視野が狭いのです。
しかし、大人になると、必要に迫られた勉強ではなく、娯楽としての勉強、余暇としての勉強という形にシフトします。
そうした広い視野を持って眺めた入試問題は、エンターテイメント作品になります。
純粋に楽しめるものになるのです。
特に「現代文」という教科は奥が深いです。
どこが奥深いのか?
現代文という科目が抱える皮肉であり、最大の魅力。
それは、「論理を追求する科目でありながら、論理が全てではないという命題を突きつけてくる」という点です。
「現代文」の魅力
「現代文なんてセンスでしょ。勉強する必要ないよ。」
「あんなの答えが一つに決まらない問題ばっかじゃんか。不公平だ。」
「著者が解いても間違える問題があるんだから、現代文なんて入試で問う必要はないよ。」
様々な否定的な意見があるかもしれません。
でももっと、純粋に現代文を楽しめばいいと思います。
まずもって、現代文に論理力は必要です。
勘やセンスのみで現代文は解けるものではないでしょう。
だって文章が論理的に書かれているから。
論理を理解せずに文章を読むことはできません。ましてや書くことも。
そのうえで、入試問題の答えは、客観的に出来上がっています。
万人が見て納得できるような解答、採点基準が練り上げられているはずです。
ただ、出題者も人間なので不備はあるかもしれません。
しかし、1点刻みの点数で合否を決める入試制度の科目である以上は、答えは揺るぎない答えであるはずであり、そうであるべきです。
しかも、現実そうなっていると思います。
近代は合理化が進んだ時代です。
キリスト教がはびこり蒙昧としていた中世は、「暗黒時代」と呼ばれます。
そこから、客観的で万人が理解できる知識が人々を啓蒙する時代へと転換したのです。
詳しくは、以前のブログ(「現代文トピック講座」をご覧ください)
その延長線上に現代があり、入試制度、現代文という科目は、そのレールの上に載っています。
そうである以上、現代文は緻密な論理を要求する科目であるはずです。
それは英語や数学などとも変わりません。
そのうえで、現代文が特異である点。
「論理が全てではない」という命題を突きつけてくることです。
論理的に読解しようとする受験生を嘲笑うかのような、そんな文章が出題されます。
東大現代文を覗く
例えば東大。
自分が現役で勉強していた時に最も印象的だった文章が、
東京大学2001年度第一問(『僕の日本語遍歴』リービ英雄)です。
(『東大現代文で思考力を鍛える』という出口汪さんの著作で読むことができるので興味ある方はぜひ)
過去問集の中で出会った文章です。
簡単にまとめると以下の通り↓
筆者は、アメリカ生まれのアメリカ人でありながら、母語ではない日本語で小説を書く作家です。
彼が、どうして日本語に魅力を感じるのか、そして、英語を通してしか見えなかった世界がどのようにして日本語を通して見える世界に変わっていったのか。
そんな自分の体験が記されたエッセイです。
在日韓国人作家の死や、中国天安門での体験が印象的に語られます。
我々が当たり前に使っている日本語とはいったい何なのか。
言語に関して抱いていた当たり前を揺るがしてきます。
それと同時に、世界は論理だけでは割り切れない、という思いも浮かんできます。
もっと感性的にとらえることも大事なんだということを思わされた問題です。
こんな刺激的な文章を出してくる東大は、やはりさすがです。
東大というと官僚養成学校で、凝り固まった堅物を育てるような印象かもしれないですが、入試問題を見る限りはその逆です。
常識にとらわれない柔軟な思考力を持つ学生を選抜したいのだと思います。
そんな思惑が透けて見える問題です。
論理が全てではない
論理は大事です。それは否定しようがない。
客観的で、論理的であることは近代化の中で非常に大事な要素でした。
しかし、それだけではない。
論理が大事ではない、ということではありません。
論理を突き詰めることは不可欠です。
ただ、論理だけでは足りないということです。
もう一つ大事なことがある。
それが感性です。
他者の文字から、他者の言葉から、他者を感じ取る力。
表面の論理の奥にある深みをすくいとる力。
論理では割り切れない世界を直感する力。
論理に論理を重ねて受験勉強をしてきた受験生に何とも皮肉を込めたメッセージです。
本当は、感性も大切なんだよ。
そんな風に、東大の入試現代文は語りかけてくれているように思いました。
論理を突き詰めた先で出会う至極の問題が、論理が全てではないと語る。
その矛盾、対峙において何を感じるのか。
そのアンビバレンスを乗り越えること、それが入試現代文の楽しみ方です。
ぜひ、そんな視点からも入試問題を楽しんでみてください。
※参考文献
『東大入試で思考力を鍛える』,出口汪,2021,だいわ文庫
(余談)
「論理が全てではない」
このセリフは、実は東大王で有名な伊沢くんも口にしていました。
詳しくは、下記動画で↓
【中田敦彦vs伊沢拓司②】 〜芸術の領域〜【XENO ゼノ】
この動画は、オリラジのあっちゃんが考案したゼノというカードゲームを二人がプレイする動画です。
前編もありますので、そちらから見ることをおすすめします。
上記の動画は後編です。
最後の勝負が決まった後に伊沢くんがいうセリフが、「ロジックだけではない」です。
(現代文の話とは全く関係ありません)
1本の映画を見るかのような重厚感あふれるお洒落なゲーム動画ですので、ぜひ見てみてください。
実は伊沢くんとは大学の同級生です。
※お会いしたことはありません…。